アオイがシンジュクゲットーで泣き叫んでから2年後…
世界は相変わらず不平等で、残酷で、彼女に少しも優しいものではなかった。
しかし、確実にときは流れ、アオイの身辺もまた変わりつつあった。そんなとき、
トウキョウ租界にあるシフォナード家の屋敷の一室で、彼女は物憂げな溜息をついていた。
「ソフィアお嬢様。学校へ行くお時間でございます。ご準備を」
「分かっているわ」
異世界へ来てから早2年である彼女の現在の身分は
木の葉の里の暗部分隊長空野アオイではなく、
中級貴族シフォナード家のご令嬢ソフィア・シフォナード。
しかものんびりと学校に通う学生という身分である。
(2年前のあのとき…私は死を選べなかった……)
のんびりと学校へ行く支度をしながら、思い出すのは2年前。
ひとしきり泣き叫んだ後、彼女の行動は素早かった。
シンジュクゲットーを出て賑やかな街に行き、情報を集めると、
手近な屋敷に忍び込み、写輪眼で家人たちに
自分は『幼い頃に引き取った養女でソフィア・シフォナード』だと暗示をかけた。
そして、次の日には政庁に忍び込み、戸籍まで偽造した。
すべてはこの世界で生きていくために。
(どうしても木の葉に帰れるかもしれない…その可能性を捨てきれなかった。)
「弱い…なんて弱いの」
”いつかは木の葉に帰れるかもしれない”その思いだけで、アオイは
この2年間身体が鈍らないよう鍛え続け、学生という温い日々に身を浸してきた。
その結果はといえば、願いは叶えられることなく、相変わらず無意味な日々を過ごしていた。
しかし、帰れない苛立ちは頂点に達し、今にも弾け飛んでしまいそうだった。
「お嬢様」
「今行くわ…」
そんな過去への思いを振り切るかのように、頭を切り替えると
アオイはパッと椅子から立ち上がると執事と共に部屋を出て
外に待っている送迎用の車へと乗り込んだ。
「今日は生徒会の用事で遅くなるから」
「承知いたしました」
生温い日常。それはこの2年間変わることのないものだった。
だがしかし、この日ある少年の運命が大きく動き始めたのとともに
彼女の運命もまた新たに動きはじめていた。
「おはよう。ルルーシュ」
「ああ、おはようソフィア」
にこやかにアオイと挨拶を交わす相手は隣の席の男子生徒
ルルーシュ・ランペルージだ。彼は頭がよく、アオイは彼に好感を抱いていた。
それは決して恋愛感情ではなかったが、彼と過ごす時間は
この生温い日常のほんの些細な刺激ともいうべきものであった。
「ルルーシュ?」
「どうかしたか?」
「……顔色悪くない?」
それは忍びであるアオイだからこそ気付いたような僅かな変化だった。
ほんの些細な違和感。上手く取り繕ってはいるが、その道のプロであった
アオイに通じるはずもなく、憔悴しているような疲れた様子が見てとれた。
そして、改めてルルーシュの瞳を覗き込んでアオイは絶句した。
ルルーシュの瞳にあったのはこの世界に来てからは久しく見ていなかった
暗い暗い……人を殺めた者だけが持つ、闇の色だった。
「そうかな?昨日の夜、更かしし過ぎたかな?」
「……ルルーシュ。昼休み少し話があるの。屋上に来てくれる?」
何でもないように笑うルルーシュの姿とは裏腹に、
その瞳の暗い色、そして忍びとして鍛えたアオイの鼻に届く確かな血臭。
弱い、がしかしテロなどに巻き込まれたぐらいではつかないほどには強い臭い。
人を殺めなければ、こんなにも確かに臭いはつかない。
そう、至近距離で相手を殺傷しない限り有り得ない濃さだった。
久々に感じた血臭に、自分の中の凶暴な部分が疼くのをアオイは感じた。
「……分かった」
生温い日常のほんのスパイス的存在だった。
ルルーシュとアオイの関係はただのクラスメート、それだけだった。
しかし、この瞬間、アオイの中で、確かに何かが変わった。
戦いの…戦場の空気を纏って。
昼休み、2人は人気のない屋上にいた。
普段ならばその居心地の良さから、授業間の休み時間ならまだしも
昼休みなどは人影の絶えない場所である。しかし今、
そこに2人以外の人影はなく、サワサワと風が吹いているだけだった。
「それで?話って何?」
”面倒臭い”そんな雰囲気を隠しもせずに、ルルーシュはそう問いかけた。
実際愛の告白だとでも思っているのかもしれない。しかし、
アオイの表情はそんな可愛らしいものではなく、真剣なものだった。
彼女はフェンスに向けていた顔をゆっくりとルルーシュの方へ振り返った。
「ルルーシュ。単刀直入に聞くけれど。貴方、人を殺したわね」
くっとルルーシュが一瞬息を呑む。
アオイの言葉は疑問ではなく確認。確信が篭った問いだった。
真っ直ぐに彼の瞳を見つめる。そこに僅かな動揺が浮かんだ。
それは常人ならば気付かないようなほんの小さな揺らめきだ。
だが、木の葉で暗部分隊長も努めたアオイにとって尋問など得て中の得て。
わずかな瞳の動き、表情の動きでさえも見逃さない。
「何のことだ?」
「とぼけても無駄よ。その血臭は誤魔化せない。」
濃い血臭。久しくアオイの中で忘れられていた感覚。
戦場の記憶を呼び起こす臭いだった。
ほんの2年前までは毎日嗅いでいた臭いだ。彼女が間違うはずもない。
シャワーを浴びようと、香水をつけようと誤魔化せないものである。
「……何故、分かった」
「1つは貴方の瞳。そんな暗い瞳で一般人?笑わせないで。あとはその濃い血臭。
戦場にでもいたの?昨日といえば…そうね。シンジュクで何かあったみたいだけれど?」
更に推測も含めて事を臭わせれば、更にルルーシュの表情が歪む。
そして、溜息を1つ吐くとゆっくりと口を開いた。
「ふん…そうだ。俺は昨日、人間を1人殺している」
鋭くアオイを睨みつけながらも、あっさりとルルーシュはその罪を認めた。
これは何かあるとアオイの忍びの本能が告げる。
彼は恐らく奥の手を持っている、まだ警戒を解いてはならない…と。
「ああ、そうそう。私は通報するつもりはないから」
「……何?」
「理由を話してくれるなら。貴方が快楽で殺人を犯すとも思えないし。理由によっては協力するわ」
木の葉の里を去ってから久しく感じていなかったこの高揚感
戦場に立つのだというその感覚。幼い頃から戦いの日々に身を投じていた
アオイにとって、一種快楽ににた感覚だった。
彼の目的は知らない。しかしその狂気に身を委ねてしまいたい。
そんな思いがアオイの中でムクムクと膨れ上がる。
その一方で彼がくだらない理由で殺人が犯すはずがないという確信もあった。
「気に入らなければ、記憶でもなんでも消せばいい」
「……ソフィア、お前何を知っている?」
「いいや?別に何も?ただなんとなく、やけにあっさり認めたからそうじゃないかと、ね」
ニヤリとルルーシュの口唇が弧を描く。
どうやら彼の中でアオイは”有能な駒”として認識されたようだ。
これでとりあえず今は記憶は消されない、とアオイは感じた。
付き合いは短いが彼は使える駒は最後まで利用するタイプだとアオイは思っていた。
「いいだろう。どうやら馬鹿じゃないようだ」
「ふふ。お褒めに預かり恐悦至極ってね」
ルルーシュは淡々とギアスを手に入れた経緯を語り、
自らの目的も同時に語った。そこにあるのはともすれば悪ともとれる正義、
そしてブリタニアと実の父親であるブリタニア皇帝に対する深い憎悪だった。
「……こんなところだな」
「ふぅん、だから実の兄であるクロヴィスを殺害、ね。なるほど…いいわ。協力してあげる。」
ルルーシュの正義は万人に受け入れられるものではない。それは間違いない。
しかしアオイは彼の理想を実現させてみたいと思った。
異世界の人間であるアオイから見ても分かるこの世界の歪み。
それを歪みでもって正そうとするルルーシュに興味があった。
元の世界で彼女が一度は思った理想を彼なら実現するかもしれない、
【争いのない優しい世界】を、そんな思いもあった。
「さて、次はソフィアの番だ」
「……私?」
「俺がクロヴィスを殺害したことに気付くなんて、深窓のご令嬢ができることじゃない」
”俺だけ秘密を話すなんて、フェアじゃないだろう?”ルルーシュはニヤリと笑った。
やはりこの男馬鹿ではない、そう思ってアオイもニヤリと同種の笑みを浮かべた。
ここでもし、アオイが少しでも嘘を語れば、彼は即刻彼女の記憶を消すだろう。
もっとも、それは彼女にしても同じことだったが。先ほど一瞬でもルルーシュが嘘を吐けば、
彼女は写輪眼で記憶を削除するつもりだった。だからこそ、今ここで手の内を明かす。
「いいわ。教えてあげる。私が何者か」
おもむろにアオイはフェンスに手をかけるとそれを乗り越える。
はるか十数m下に見えるのは、間違いなく堅いだろうアスファルト。
そして戸惑いもなにもなく、彼女は飛び降りた。ここは屋上であるから、
落ちれば良くて大怪我、悪ければ死んでしまう。もちろんマットなどない。
だが、彼女に恐怖など微塵もなかった。あるのはただ舞い上がるような高揚感のみ。
「おいっ!?」
慌ててルルーシュはフェンスに駆け寄る。
まさかたった今まで協力すると言っていた女が
自ら死のうとするとは思わなかったのだろう。
だが、慌てて下を見た彼の目に入ったのは信じられない光景だった。
「なっ!?」
「驚いた?こんなことも出来るんだよ……異世界人の私にはね」
アオイは壁に垂直に立っていた。何にもつかまらず、
重力に逆らって、まるでそこが地面であるかのように壁に立っていた。
それどころかクルクルと踊るように回転さえしている。
これにはさすがのルルーシュも絶句した。
「異世界…人?」
「そう、私はこの世界の人間じゃない」
アオイはルルーシュと同じように淡々と過去を語る。
自分が忍びという存在だったこと、人を殺してきたこと
禁術の反動でこの世界にきてしまったこと…などなど
まさにルルーシュにとっては予想もできない話だったに違いない。
ポカンと阿呆のように口を開けて固まっていた。
「信じ…られないな」
「まぁ全部信じてもらおうとは思わないけど…私が特殊な力を持っているのは分かったでしょう?」
そう、ここで重要なのはこの話を信じるか否かではない。
彼女の協力の申し出を受けるのか否かである。
「大事なのは…私が優秀な駒として役に立つか否か。そうじゃない?」
「…確かに」
ゆっくりとルルーシュが目を閉じて思案する。
得体の知れない女の利用価値を見定めているのだろう。
駒とするリスクと、駒として得る利益、この2つを天秤にかける。
だが、アオイは確信していた。彼にとってこの契約はプラスが大きいことを
「いいだろう。ソフィア。お前は今日から俺の駒だ」
「……よろしく。黒の王」
さっとアオイは騎士としての礼をとる。それは忠誠の証。
まさか成り行きとはいえ、火影以外に忠誠を誓う日がくるとはアオイ自身でさえも驚いていた。
(これも運命…というやつなのかしらね?)
黒の王の右側に、蒼い騎士が1人――――立った。